建学の精神はどこへ行ったのか

早稲田大学の入学式の式典は立派だが、総長の話には変革、改革という言葉がひとつも出てこなかった。オバマ大統領の、Change の連発はともかくとしても、Yes, We Can (Change)の気迫もない。
さらにフジ・ホールディングスの日枝氏が来賓だ。確かに早稲田は慶応のような財界べったりの保守ではなく、メディアによる反骨精神があると言いたいのかも知れない。しかし、この国の体たらくを招いた張本人は、ジャーナリズムを忘れ、通信・電波行政に守られ、政治をバラエティー番組に投げやり大衆芸能化したメディアである。個人の優秀なジャーナリズムを育てず、あくまで広告主である大企業主義を重視したメディア界に大きな問題がある。
建学の精神は国家の独立、そして学問の独立だという前に、ジャーナリズムの独立はどこへ言ったのか、学生たちの前で真摯に自省すべきだ。
さらに学問を通して得られる目標を与えていない。それは個々人が培うべき(人生)哲学であり、倫理感、個人のポリシーである。それがないから、総長も日枝氏もおそらく国家ビジョン、政策提言、制度改革という言葉が出てこない。大学生を前にしてだからこそ、自由闊達な意見をだすことで、学生たちの自由闊達な意見が醸造されるのであり、それが欠如しているから今の大企業における経営に耳障りな発言はさけるという「かん口令」の蔓延を止められないのである。
今までの日本のさまざまな政策や政策運用の見直し、制度設計(審議会のあり方を含む)の見直し、有識者と呼ばれる人たちの時代錯誤や無用論など、それこそ自由闊達な意見とポリシーの大切さを語れない教育界には悲しくなる。
ジャーナリズムのないメディア業界を作った長老を表彰するなど、早稲田の建学の改革と反骨の精神はどこへ行ったのだろうか。