議論を混同しない日本を

環境保護活動家アディ・ギル号のベスーン船長が海上保安庁に身柄を引き渡し事情聴取するという。ここには2つの視点がある。
ひとつはこれは暴力行為であるということだ。海賊船と同じである。日本国としては日本船籍の安全を守るという義務がありそれを正当に果たす必要がある。ニュージーランド政府にもこの点は明確に伝えるべきだ。このシーシェパードの目的がどのようなものであっても、暴力行為に訴えることでその正当性は失われる。このことを日本のメディアは声を大にして海外に発信しなければならない。
そもそも日本人は日本で起きている諸問題やこのような外国からの暴力行為に対して、自らの正当性を訴える英語による情報発信がない。以前から思っていたが、たとえば沖縄の米軍基地における米兵による暴行などは、海外向けメデヂィアによって堂々と発信し、米国人の良識に訴え、米軍基地管理責任に米国内部から圧力をかけるべきだ。
ところが日本は捕鯨の問題にしても、米軍基地の問題にしても、話を混同し、正論を海外に伝える術をもっていない。
捕鯨あるいは調査捕鯨は世界的に禁止の方向にある。調査捕鯨といとっても、近くの魚屋で鯨肉を売っているから調査捕鯨が形だけであり「うそつき」と呼ばれても仕方がない。そもそも過去において鯨肉で動物性たんぱく質を取っていた時代と現代では話がまったく異なる。現代の日本では、過去では考えられないくらいの優良な動物性たんぱく質を豊富に取れる。飽食の時代である。そしてそれを煽るように脳のないマスコミはこれでもか、これでもか、という具合に料理番組を次々と出してくる。
このような時代に果たして本当に鯨肉が日本人の栄養にとって不可欠であるわけがない。これはキャビアとはいわなくても贅沢品だ。そしてそれを取り続けようとすること自体が時代錯誤であり、「何も鯨肉まで食べる必要がないだろう。」と考えるべきなのである。
他方、米軍基地の問題では日本の防衛や海兵隊の問題が置き去りにされている。前者については前述のように、北朝鮮よりの社民党以外は日本への正しい愛国心から防衛本能が働き、基地の国内存続論が正しいと考える。さらに、基地の移転で欠けている議論は普天間が「海兵隊」の基地であるということだ。
米国の軍隊には、海軍、空軍、陸軍とともに海兵隊という組織があることを日本のメディアはあまり伝えていない。海兵隊とはある意味で前線の先頭にたつ突撃部隊であり、その他3軍よりも米国への忠誠心が高いが、ブレインという意味では最下位に位置する。つまり鉄砲ではなく槍で国土を守る部隊なのだ。だから時として理性に欠ける乱暴な行動にも出てしまう。海軍、空軍、陸軍からは下に見られる存在であり、海軍は海兵隊と同じ基地で生活できるわけがない。しかし、有事が勃発すれば自らの命を真っ先に犠牲にするのが海兵隊であり、そのような魂の軍事訓練を受けている。そして日本には海兵隊の基地が必要なのである。
何が言いたいかといえば、日本は捕鯨をやめるべきだが(続行しており)、それとシーシェパードの暴力行為を分けて議論すべきなのである。そして日本には基地問題があるが(そしてある意味で必要悪だが)、それと米兵の暴行の問題とは分けて議論すべきなのである。
日本人の頭の中は、これもあれもすべてを絡めて相手と交渉するといった、腹芸の文化が残りすぎている。それが自らのポジションを不明瞭にし主張と不明確にしている。
暴力と暴行には毅然と望むことが大事であり、それを本国側にも正確に伝えられる海外向けメディアが必要だ。日本国内の事象を英語で正しく海外に伝え、主張すれば、その結果、国内の体たらくの政治も官僚も経営者も、世界の目でたたき起こされることが期待される。