勝つことの意味

オリンピックが近づいている。だれだれ選手が壮行会を行った、そして頑張れのシュプレヒコール。テレビ局も頭を使わずに視聴率が稼げるので、国民の「勝つ」感情移入を誘う。
勝つことの極みは朝青龍である。朝青龍に期待した視聴者は、単に日本の体制への不満とルールの刷新を期待しているのではないか。
一方朝青龍を野放しにした相撲界には何のdisciplineもない。勝つことによって、人気力士が登場し、それが自らの退職後の金銭的な事情を満足させる。
本来、勝つこととは自己鍛錬であり、浅田真央上村愛子たちが言うように、彼らの勝利の障害は、自分自身の力を出せないことなのである。それは恐怖心や邪念、懸念、不安などであり、それこそ108もある煩悩との戦いなのだ。
そういった一流選手の自分の能力の客観的な評価に対して、マスコミの対応はあまりにも稚拙である。つまり勝て、という号令のもとに閉塞感をもつファンを道連れにして応援団と化し、視聴率または虚構の愛国心を煽っているだけである。
プロ野球の熱烈ファンは人生の敗者であると米国のコメントを読んだことがある。
こういった敗者の言い訳と感情を正当化し、それに対して崇高な自己犠牲と鍛錬で挑む一流選手を重ねるのはスポーツあるいは本当のスポーツ精神への冒涜と映る。
一流のスポーツ選手が挑んでいるのは、自分自身の力を出せない煩悩との戦いなのである。
視聴者にもその点(つまり自己鍛錬)を理解させるのが本来のマスメディアではないだろうか。勝つ相手としての敵は容易に作るものではない。