議論と外交

1972年7月に中国を訪問した田中角栄毛沢東と会談した際、冒頭、毛は田中角栄に、「周首相との喧嘩はもうすみましたか?喧嘩は避けられないものですよ。世の中には喧嘩がないわけはないのです。」と言ったという。それから4年後の1978年8月に日中平和友好条約が調印された。
8月21日にも書いたが、今月になって北朝鮮はあわただしい動きを見せている。さらに21日の聯合ニュースは、北朝鮮の「朝鮮日本軍慰安婦および強制連行被害者補償対策委員会」が、日本の当時の三菱重工業が運営する神戸造船所に強制徴用された被害者が、平安道慶尚道などで4000人余りに及ぶことが確認されたと明らかにし、日本政府と関連企業に謝罪と賠償を求めた、との朝鮮中央通信の記事を載せている。三菱重工はどのように対処するのだろう。
欧米人は議論が日常茶飯である。そして議論も過熱する場合が多い。議論は意見の闘いであり相手の人間性や人権を誹謗するまでには(通常)いたらない。一方、日本人は議論が苦手だ。日本では議論は喧嘩とであり、無気になって相手の人間性を中傷するまで発展するか、(最近の切れる若者のように)暴力行為となる。これでは世界の中から取り残されるのも当然かもしれない。
現在の日本は北朝鮮との2国間協議が必要で、相手との議論をこちらから開始しなければならないのに、日本国政府は日本人の得意な「沈黙」と米国への「根回し」に終始している。これは小学校教育からの悪弊の結果であり、それを断ち切って、日本は国民レベルで意見をもち判断を行い(マナーを守って)議論ができる国家にする必要がある。今の日本には北朝鮮との議論を徹底的に行い、いち早く国交を回復し、賠償問題に戦略的かつ速やかに対応し、拉致被害者の問題を解決することが重要ある。
無口ですぐに手が出る若者に教育をしたのは、外交の苦手な日本国政府の姿そのものである。新たな政権に求められる外交とは、1970年代に中国政府が日本の賠償責任放棄を英断したように、ポピュリズムに媚びない、勇気をもった議論と行動である。