グッドデザインより景観規制を

今月末にグッドデザイン・エキスポが開催される。しかし、グッドデザインという制度がどうも腑に落ちない。なぜ感性に訴えるデザインに(グッドデザインを受賞するか否かという)基準があるのか、なぜその選考委員を政府(経済産業省の外郭団体である(財)日本産業デザイン振興会が選出するなど)お上が決めるものなのか、そしてなぜ都市や自然造形、またはテレビ番組や交通システムなど工業製品以外において優れたデザインか否かの議論がないのか、疑問が続く。
戦後の高度経済成長期には確かにモノ作りだけの世界で機能が優先してきた。その当時は日本の工業製品におけるデザイン性は未熟であり、グッドデザインには欧米の好デザインの商品を真似ることなく、独自のデザインを創出する狙いはあったと思う。しかし、日本の工業水準はすでに世界のトップレベルであり、製品のデザイン性は各メーカーが競えばよいことであり、お上があれこれ基準を作ったり、それを押し付ける時代ではない。ましてやデザインとは感性の問題であり、経産省の役人が指定した官製デザイナーがグッドデザイン製品を選定する基準も必要ない。その製品を使う人の感性、生活環境、住環境、都市環境、地域環境を理解、意識しないで、デザインの良し悪しを(日本国内で)勝手に決めるのは、井の中の役所とメーカーとデザイナーのマスターベーションである。
またデザイナーの悪しき派閥と序列の世界がさらに官の基準が入ることで歪曲され、優れた若手デザイナーも何とか先生の派閥でないと世の中に認められないレジームを作り出している。
さらにどのような製品がグッドデザインの基準を満たしていても、それを取り巻く環境とのマッチングが求められるのであり、グッドデザインにエネルギーや金を使うくらいであれば、都市や地方の派手な看板、どぎつい色の広告や文字の大きさ、駅のホームや宝くじのノイズ、広告や看板の立地場所などを厳しく規制することが先決であり、そうしなければいかに単体のモノのデザイン性が優れていてもそれに似合う都市景観は創出されない。
役所の縦割りから生まれた押し付けのグッドデザインを追う時代ではなく、省庁を超えた都市計画や交通計画で「きれいな景観」のコミュニティーの創出が求められている。